自己紹介:学びのかまどとは?

カンパニアの学びのかまどは、より本質に迫り、自分たちの意識や暮らしの中の一瞬一瞬の選択が、より本当の意味でサステナブルになってゆくことを目指しています。

 

パンをいっしょにこねて、発酵し、焼き上がりをみんなでお祝いして分け合って食べる。そんなことを目標にしています。

 

SDGsについては、一年以上をかけて、つながるコミュニティである、トランジション・タウンとセブン・ジェネレーションズのコミュニティのみなさんといっしょに、国連から発表されている2030アジェンダを読んできました。

読んでみてわかったことは、「言葉がむずかしくて、つまんな〜い!」ということ(笑

なので!SDGsの本質は踏まえつつ、自分たちの暮らしの中で使ってゆける、私たちのSDGsを自分たちで考えたり、各目標間のつながりを考えたりする新シリーズを作ろう!ということになりました。

 

SDGsのターゲット(1, 2 /17)

1.貧困をなくそう

あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困に終止符を打つ

2.飢餓をゼロに

飢餓に終止符を打ち、食料の安定確保と栄養状態の改善を達成するとともに、持続可能な農業を推進する

 

教育を受けたくなければ、それでいいってこと?

 

前回に引き続き、SDGsのターゲット1,2について、今夜は7名で話していきました。

前回、「奪われている」というキーワードが出ましたが、今夜もその話が広がっていきそうです。

 

「奪われるというけれど、例えば教育を受けたいと思わなかったからそれはいいってことになっちゃうの?」という疑問から問いが始まりました。

 

その問いに対して、言葉が重なっていきます。

ある人は、「選択肢がないこと」が問題であるという言います。彼らが教育を受けられなくてもいいと思っても、その選択肢がないからそう判断するということがあり、それを奪っている社会構造そのものが問題であるという問題提起がなされました。

 

その基準が難しいという参加者は、以前ご自身が調べたことを話題にしてくれました。

自分はお父さんと魚釣りなどをして楽しく生活していたのに、ボランティアの人がきて、「それでは栄養がよくないから、畑を耕して作物を植えなさい」と言って、お父さんは労働につくようになり、日に日にお父さんとの時間がなくなり、前の生活がよかったという子どもの話です。他にも、途上国で英語を教えることについても、自分たちの感覚を押し付けているという側面があるのでは、と疑問が場に投げられました。

 

良かれと思ってしていることは、「良かれ」と思っていたらいいのかという声が、その疑問に対して重ねられました。自分たちの尺度を押し付けているように見えるものは、それを選んでいる意味があるなら否定はしないけど、自分はそれに協力したいと思えないという感想です。

 

そこで北インドのラダックの事例が出されました。外国人が入れなかったころ、彼らは貧しいなりに幸せに暮らしていたのに、1970年代頃には突然外国人が入れるようになりました。そうすると、都市ができたり、都市で生活したいと思う人も出てくるようになって、自分たちは貧しいと思うようになってしまったという話からわかるように、彼らは「貧困」ではなく、みんなが助け合いながら暮らしているコミュニティがあったのに、グローバリゼーションが入ってきて、都市で働く生活者が出てきてそれを「幸せ」だと思うようになった一面がありました。

 

「何に対する選択肢がない」のが貧困なのだろう?

 

ここまで話をしてきて、別の参加者から3つ気になったことがシェアされました。

一つは、貧困と「彼らが幸せであるかどうか」ということを同じ土俵で話してはいけないのではないかということ。そもそも貧困とは、世界中が人権宣言などで謳われている国が守るべき権利が人々から奪われていることなので、それと彼らが幸せであるのかという主観的な話は別であるという議論が紹介されました。

二つ目は、確かに特に西洋のNGOは、「良かれ」と思って自分たちの生活スタイルを「支援」「援助」として途上国の開発支援の時に持ち込んだ事例はたくさんあるけれど、それがきちんと近年非難されていること。今では、多くの団体が方針を見直し、現地のことは現地の人々が決められるようなサポートをするように舵を切っているように感じるといいます。

三つ目は、選択肢がないことについて。何についての選択肢がないことが貧困なのかということをもっと考えたいという思いが場に投げかけられました。発言した方の意見は「自分の人生に対する選択肢が社会から排除されていること」が貧困なのではないかという意見が出ました。例えば、結婚したいと思っていても、同性だと結婚できなかったり、児童労働という環境の中にいるからこそ、子どもたちが学ぶ権利が奪い取られていることを思い浮かべているようでした。支援される側が、支援する側から提示された「改善方法」を受け入れるしかないという状況が、「自分たちの人生について選ぶ選択肢を与えられなかった」という時点で貧困だと考えているとシェアされました。

 

何に選択肢がないか、という問いには、別の参加者から「本来その人が持っていたであろう選択肢が奪われている」ことではないだろうかという言葉が重ねられました。それが貧困や飢餓を生んでいるような気がする、と。

 

イザベラ・バード『日本奥地紀行』が紹介されました。日本にやってきたイギリス人が「日本を西洋化しようと思っていたけど、日本は西洋化すべきではない」と考えたというエピソードが紹介され、これこそが貧困と貧しさの違いを明示されていると話してくれました。生きる権利が与えられていたし、いろんなものが循環する仕組みがあったし、おかみの批判もできたし、貧しいかもしれないけれど、貧困ではないし、飢餓ではない状態があったというシェアがありました。

 

心の豊かさと物質的な豊かさが両輪である必要があると考える、という考えもシェアされました。

 

どうして貧困が生まれるのだろう?

 

ここで、さらに一歩進んで貧困はなぜ生まれるの、議論が深まっていきます。

コーヒーやバナナやカカオを作っている人が貧困になりやすいのはなぜだろう、ということから問いが出発します。一つの見方として、モノの生産工程の上流工程にいる人は、価格を決めることができるなど、最も力を持っています。最も下流工程にいる人たちは、生活できる、もしくは生産できるギリギリの賃金が支払われるしかないことになっていて、これは「経済原則」から見ると仕方のないことだと言えるそうです。

貧困の原因を作っているのは、生産国(途上国)には生産の上流階級にいられるような力を持った組織がないことだという指摘が上がりました。だからこそ、生産国に上流工程に値する組織ができるように、情報などを開示することで支援したり、資金的なサポートすることが抜本的な解決になるのでという、解決案も少し話してくれました。

さらに、国を発展させたいという途上国の視点にも立って話がありました。私たちも、コーヒーを飲んだ時に1杯目はとても美味しく感じても、おかわりすると、「そうでもないな」と思うことってありますよね。多くの人はスカイツリーに何度か登ったら、そのうち「もういいか」という具合に登らなくなるように、途上国も、自国に高いビルを立ててみたい、立派な建物を建設したいと思っているかもしれません。ただ、先進国が、これ以上高いビルはいらないと思ったように、彼らもきっとどこかで、「高いビルはそれほど必要ではない」ことに気付くはずだといいます。そうやって、不必要なモノは自然と淘汰されていくのだろうという考えがシェアされました。そこでモノで満たされなくなったら、自然と、どうやったら自分たちが楽しく生活できるか、という精神的な豊かさに全員が向かっていくのではないかと、先ほどの「心の豊かさと物質的な豊かさ」について言葉を重ねてくれました。

 

そして豊かさを測る「絶対的な」尺度はなくて、それぞれ個々人が測っていくものなのではないかという問題提起が場に投げかけられました。その中で情報が広がることで世界が広がっていくことが、その人の尺度に影響を及ぼすはずだとの考えがシェアされました。その意味で、先ほどラダックの話が出た中で、彼らが西洋文明と出会った時に、個々人の中での尺度が変わったのであり、このままでいいと思った人もいれば、このままではよくないと思った人もいて、その感覚は必ず尊重されるべきものだと思ったという話が出ました。SDGsができた経過を見ても、環境問題が深刻化する中で、先進国から途上国が発展を規制されるという強い危機感を持っていたところからスタートしていて、彼らが先進国並みに発展する権利も、実は同時にあるのではないか、それが「公正な発展」につながるのではないかと話されました。その権利を守りつつ、環境を汚染せず、人権も踏みにじらない発展の仕方があるということがあるということを先進国は知っているので、それを開示することが大切なのではないかという話がありました。

 

みんながそれぞれ「発展」を経験する権利はあるということについて同意する意見がありました。

 

一方で、途上国はやはり奪われているという視点は失ってはいけないという発言者もいました。先進国のために生産し、資源やエネルギーを奪われているということが貧困や飢餓を生んでいるという「構造」がそもそも公正ではないという視点があります。自殺率や殺人など問題が山積みの先進国が本当に豊かなのか?という問いが改めて問題提起されました。

 

その中で、国と国の問題だけでなく、国内でもこの上流工程と下流工程という構造があるということをみんなで確認しました。それを解決するために情報とユニオンの力が必要なのかもしれないという話がありました。

 

私たちは世界がだれの手によってできているのかを知っているか?

 

ここまできて、改めて今日のテーマの「飢餓と貧困」について視野を戻して見ます。釜ヶ崎の街から参加している参加者から、非常に肌触りのあるお話が聞けました。

 

その人は、こういう話をしていると、釜ヶ崎で日雇い労働や元日雇い労働をしていた人たちや、今現在路上生活をしている人たちのことを思い浮かべるといいます。

 

貧困という状況や、選択肢が奪われているという状況を、「誰から」見てそうなのか、どの大きさから見ていくのかということで変わってくるけれど、「すぐそばにいる人」を見ないでその話をしても誰の話をしているのかをわからなくなる。日本にも、路上生活や生活保護を受けている人が多くいるけれど、それはなぜそうなっているかというと、そうなるような国策をしいてきたからであるはずなのに、それを私たちは自覚していないことがとても多い。なぜなら、私たちがこの世界にこうして生きているのは、「誰の手によって」作られているのかを知らないからと、これまで出会ってきた釜ヶ崎のおじさんとの話を思い出すようにしながら語ってくれます。

語りは続きます。今、東京でもどこでも、使われている団地や水道や、鉄道は当時、文字どおり「手」で作られてきました。高速道路が手で作られていたなんて想像もつきませんが、それをしてきたおじさんと話をした時に、今自分が生きている世界と、おじさんが高速道路を作っていた世界が地続きにつながっている事を実感したそうです。先ほどまで私たちが話をしていた国際的なトレードや開発についても同じことが考えられます。チョコレートやコーヒーを食べる時に、それがどこからきているのか知らない、知ろうとしない、知らせる場所を用意していないこと。

「知らない」ということは、選択肢を知らないということもあるし、私たちが自分の生きている世界を全然知らないということを思ったと話してくれました。もう一つは、「私たちがだれと生きているのか」ということを自分にも問いかけてみたいと思ったと、素敵な問いを場にギフトしてくれました。

 

とっても時間が足りないけれど、今日も時間がやってきました。

 

私たちは「目の前にいる人をちゃんとみる」ことさえも実は、日々の忙しさの中で奪われていることに気付くことができました。目の前にいる人をちゃんと見ようとしているか、それに取り組んだ2時間だったように感じます。

 

written by かなこ